シリーズ記事
- SE向いてないからとすぐ退職した私が復帰してフリーランスSEで飯食っていけるようになるまで1
- SE向いてないからとすぐ退職した私が復帰してフリーランスSEで飯食っていけるようになるまで2
- SE向いてないからとすぐ退職した私が復帰してフリーランスSEで飯食っていけるようになるまで3
- SE向いてないからとすぐ退職した私が復帰してフリーランスSEで飯食っていけるようになるまで4←今回
- SE向いてないからとすぐ退職した私が復帰してフリーランスSEで飯食っていけるようになるまで(終)
やっと理想の働き方を手に入れたと一瞬思えた社会人4年目前半
念願のコード書かせてもらえる企業へ
転職して最初の案件は上司の下でほぼ1人で仕事する裁量があり、自由きままな自社製品開発に携わらせてもらえた。
JavaのJersey2というフレームワークを使ったAPI開発。
訓練校時代に入門書を完璧にしていたので、わからないことはググればすぐ解決でき、1人で作れるようになっていた。
ただし上司は完全に放任主義でコードレビューもなく、保守性の高い綺麗な書き方やデザインパターン等はできていなかった。
やっぱりお金って大事だな
今まではいつも実家から1時間超の時間をかけて出勤していたが、この転職を機に職場へ30分以内のところへ一人暮らしを始める。
正直給料は新卒並に低く、家賃もまあまあ高いところを選んでしまい、今まで実家でぬくぬく育っていた金銭感覚から一気に目が冷め、早く実力つけて昇給しなければという焦りが生まれた。
この会社にいる間はほとんど給料が上がらなかったので、旅行したり外食行ったり勉強会等に参加したりは我慢して、かなりつらい思いをした。
転職活動時は給料度外視で、今は低くてもすぐに成長して上げてやらあという謎の自信があったが、やはり給料はその会社の利益率次第で自分ではどうにもならんのだなと理解した。
入門書レベルから抜け出せない焦り
自分の目標はフリーランスで飯食っていけるレベルまで技術力を身につけることだった。
入門書レベルしか身についてなく、このままじゃダメだと思っていたので、この時から上司にもっと技術力を身に着けたいと相談していた。
Javaをやるなら今はSpringが出来て当たり前の時世だった。
でも、独学でSpringの書籍とかを読んでもさっぱりわからない。
技術力の向上という面では、結構詰みを感じていた。
炎上案件へのヘルプでエースに
入社して数カ月後、別の部署で大炎上している案件にアサインされる。
お客さん独自のフレームワークを使った素のJavascriptを書く案件だった。(でも自社で作業)
JSの案件は初めてで、最初は優秀な先輩SEに質問しまくっていたが、徐々に慣れていき気づいたらエース級の生産性を上げるまで上達していた。
やっぱり自社の先輩がいる環境って最高!
毎日終電帰りで土日も働き、コーヒー1日5杯以上、エナジードリンク1日3本飲み命を燃やしながら仕事をしていた。
それでも全く苦にならない程仕事が楽しかった。
コードを書く仕事と自社で作業ができるこの環境が本当に大好きだった。
残業は100時間を超え、人生で初めて手取りで月収40万の給料をもらえた。
再びどん底社会人4年目後半〜5年目
なんと客先へ飛ばされることに・・・
「うちの部署は自社で完結する仕事しかない」
この言葉はなんだったのか。
そんな言葉を信じた自分がバカだった。
自分が転職活動をしていた時はIT業界の景気が良く、仕事が沢山あったから一時的にそんな状態になっていただけだった。
出向先は、自宅から通勤約90分。
乗り換え2回、3つの路線はどれも満員電車。
せっかく金ない中、引っ越ししたのに。。
出向した自社のメンバーは私以外に役職なしのリーダー(リーダー初経験)、優秀なパートナーの3人。
でもこれも3ヶ月の契約。
この3ヶ月だけ我慢すればまた自社に戻れると信じて仕事をした。
延長に次ぐ延長
3ヶ月と言ったな?あれはウソだ。
デザイン会社の品質がボロボロで納品が遅れに遅れ、最終的に9ヶ月案件をやることになった。
自分は無能でした勘違いしてましたごめんなさい
この案件での自分の仕事ぶりはひどかった。
案件の作業内容は外部設計、内部設計、製造、単体テスト、結合テスト、総合テスト、リリース。
言語はJava、フレームワークはStruts2をベースにいじったお客さん独自のフレームワーク。
自分は前の会社で設計をやっていたので設計なんて楽勝と高を括っていたがこれが痛過ぎた。
後工程は他部署に任せて細かい仕様は作っている時に気づき直せば良いという前の会社のノリで作業し、設計段階で考慮すべきことが漏れまくる。
ツケは製造、単体テストと、どんどん後工程に響く。
- 自分で設計した仕様をちゃんと把握できていない。
- 考慮すべき点が全く考慮できていない。
- 保守性の高いコードの書き方が全くできていない。
- 動作確認がロクにできてないのに完成としている。
- 単体テスト仕様書の書き方の基礎が全くできていない。
私のまずさにパートナーの先輩が気づき、毎日フォローしてもらいつつもお叱りを受ける。
リーダーは初めてのリーダーということで立ち振る舞いがわからず、作業もせず、管理も見守るだけで何も決定ができない。当然私のまずい仕事ぶりもスルー。
パートナーの先輩には怒られ続け、なぜパートナーの自分が他社の後輩の面倒なんか見ないといけないんだ、リーダーの仕事だろうと不満を吐き続け、3人の関係はギクシャクで毎日胃が痛い。
自分で作った仕様も覚えてなく、直接お客さんからも呆れられる。
死にたい
パートナーの先輩に大半フォローしてもらい、デザイン会社の遅延が功を奏して?、システム側のチームとしての遅延だけはなんとか回避できた。
IT業界やめてやると決意した社会人5年目
会社は従業員のキャリアなんぞ知ったこっちゃない
自尊心を破壊し尽くした後、やっと自社に戻った。1ヶ月だけ自社で作業した。
その後再び客先出向。知ってた。
しかも今度はコードが書けない案件・・・。
今回の案件は、超高速開発ツールを使った案件でしかも2年の作業期間の見込み。
なんだこの仕打ちは。
自社で作業やらせろというのは自分のワガママだとわかる。
でも上司には技術力をつけたいとずっと相談していたので、せめてコードが書ける案件には入れてほしかった。
やっぱり会社は従業員のキャリアなんぞ知ったこっちゃないんだった。
自分で道を切り開けなければ従うしかない。
当たり前のことだった。
この案件に入るのが嫌なら断って自分の望む案件を自分で選んで入れば良い。
自分にはそのような自分で道を切り開く力がなかった。
だから自分が望む働き方なんてできない。
ただの会社の奴隷だった。
トレードで生計立ててやる
再び満員電車で通勤60分超の現場へ。
自分には独学で実務レベルを身につけることに限界を感じたので、コードを書かせてもらえるはずのこの会社を選んだ。
その結果がこれだ。
もう自分にはIT業界で自分の望む働き方をするのは無理だとわかった。
じゃあ他の道を探すしかない。
そこで飛びついた先は、信用取引のトレード。
以前購入したトレードの情報商材をひっぱり出し、毎日深夜まで学習。60分の通勤時間中も学習。
数カ月後、販売先からコンサル生募集のメールが。
今まで何度も情報商材やらアフィリエイトのコンサルやらプログラミングスクールやらで失敗し、ここでまた同じこと繰り返すのか・・・と悩みに悩む。
でももう自分には他に道がなかった。
これで失敗したらもう一生奴隷。全てを諦めて生きていくと覚悟を決め、大金はたいてコンサルを受けることに。
(今振り返ってみても自分が相当頭いっちゃってたのがわかる。でも本当に切れちゃってたんだな。人生破滅しなくて良かった。)
ちなみに結果は1年半ほどガチで勉強したけど、誰もが予想できる通り1円も稼げず。
コンサル料○十万+実践で3万円程溶かして終了。
でも、なんだかんだ仕事でどんどんエンジニアとしての実力が身に付いていってしまった
今回の案件は年下の上司と、2年目の後輩との出向。
今まで自分が携わった案件のリーダーはみんな放任主義で、自分で考えて成果物出しなさいというスタンスだった。(忙しいからあんま話かけんなという雰囲気)
今回のリーダーは真逆で、綿密なホウレンソウを求められる。
少しでも迷ったらすぐに相談をしないと、なぜ相談しないんだと注意される。
そんな上司に、みっちり自分の成果物をレビューしてもらう。
これがメキメキ力をつけることに。
今回の案件ではコーディングはできないが、その代わりガッツリSQLを書く仕事だった。
また、単体テスト仕様書も大量に書いた。
前回の案件でズタボロだった単体テスト仕様書の書き方も、基礎的なことからみっちり細かく指摘を受けた。
おかげでSQLや単体テスト仕様書を書くことが大得意になった。
以降の仕事でのコーディング時にも、着手前に単体テストを書く観点を持ち、実装漏れが格段に減りコードの品質が格段に上がった。
また前回の案件で痛い目を見た、設計工程からくまなく考慮漏れがないかのチェック、
作ったものに対してほとんどバグを許さない動作確認をしっかり行えるようになっていた。(バグなさすぎてUT工程でのバグ検出数が減るからほどほどで良いよとまでいわれた)
そうして高い生産性、安定した高品質の成果物を上げ、上司やお客さんからの評価を大きく上げた。
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